レビューになりきれない映画評。でも、独自路線でまったりと語ります。
映画に観るオリエンタリズム
【SAYURI】レビューを読んでから、こちらをどうぞ。
「オリエンタリズム」というのは、誤解されて使われがちな用語なのであまり使いたくはないのですが、一度思わせぶりに使ってしまったら、ちゃんと書いておかねばなりません。
「こんなの日本の芸妓じゃない!」と”オリエンタリズム”的に批判する方々がいます。一方で、「SAYURI」は”ロブ・マーシャルが描く日本”なのであって、実際の日本を描こうとしたのではない」とか「スタッフにたくさん日本人がいる」などと言って、そういった”オリエンタリズム批判”をかわそうとする人がいます。はっきり言いましょう。不毛です。そして、不毛ですが、意味のないことではない、と付け足しましょう。望むべくは、もう一歩踏み出して議論したいところ。
映画は何をどう作っても、本質的にはフィクションなのですから、「現実」と一致する必要はそもそもないはずなのです。事実に忠実であることだけがリアリティではないことを、感じていない人はいないでしょう。ですが、こういった映画では、日本人は、ことさら「外国人が描く日本/日本人」に注目します。これは、実は日本人の持っているオリエンタリステイックな感覚です。
「オリエンタリズム」の本質は、実は作られた作品自体にあるのではありません。
重要なのは、こういったテーマ(今回ならば”芸者の生涯”)を「どう描いたか」という内容ではなく、「小説にしよう」「映画化しよう」「映画を見よう」「批判しよう」という時に潜む、それぞれのアクターの心性です。作られたものは、その結果でしかない。
アクター、つまり「作り手」であるロブ・マーシャル監督の中にも、原作を書いたアーサー・ゴールデンの中にも、「読んで」「観て」「批判する」アクター(我々観客&読者)の中に、すでに「オリエンタリズム」の心性があることを、忘れてはいけません。その上で作品を見ないと、映画としての評価はできないでしょう。
かく言う私も、もちろんそういう心性を持っています。こればかりはいかに排除しようとしてもできるものではありません。だから、「そんなややこしいものは観ない」と決めているのです。観てしまうと、このようにいろいろと考えてしまうから(笑)。
オリエンタリズムというのは、詳しくはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』を理解していただくとして、現代ではサイードが提示した以上に複雑な様相を呈しています。ですから、「映画の中の日本人」みたいなノリで、オリエンタリズムを理解しようとするのは、大間違いだと申しあげましょう(敢えてアクターという言葉を使って説明しました。文句のある人は関係ありそうな文献を読んた上で、論破しに来なさい:笑)。
西欧人も既にオリエンタリスティックな視点に既に無自覚ではなく、東洋の側もそうです。ですが、「オリエンタリズム・フリー」になることなど、所詮はできないことなのだということには、まだまだ無自覚なようです。いや、「自分はオリエンタリズム・フリーだ」という方がいらしたら、私はこう答えましょう。「それはあなたが”自分の妻(夫)の気持ちが分かる”というくらいの、あやふやなものでしかないのですよ」と。
サイードがこういう書物を書いたが為に「オリエンタリズム」が物分かりの良い知識人たちの間で一人歩きを始めている、というのはまったくもって逆説的で面白い事象です。
用語としての「オリエンタリズム」は、ドーキンスの「利己的遺伝子」と並んで、誤用の多い魅力的な言葉だと常々思っています。正しく使わないと、恥をかきますが。
「オリエンタリズム」というのは、誤解されて使われがちな用語なのであまり使いたくはないのですが、一度思わせぶりに使ってしまったら、ちゃんと書いておかねばなりません。
「こんなの日本の芸妓じゃない!」と”オリエンタリズム”的に批判する方々がいます。一方で、「SAYURI」は”ロブ・マーシャルが描く日本”なのであって、実際の日本を描こうとしたのではない」とか「スタッフにたくさん日本人がいる」などと言って、そういった”オリエンタリズム批判”をかわそうとする人がいます。はっきり言いましょう。不毛です。そして、不毛ですが、意味のないことではない、と付け足しましょう。望むべくは、もう一歩踏み出して議論したいところ。
映画は何をどう作っても、本質的にはフィクションなのですから、「現実」と一致する必要はそもそもないはずなのです。事実に忠実であることだけがリアリティではないことを、感じていない人はいないでしょう。ですが、こういった映画では、日本人は、ことさら「外国人が描く日本/日本人」に注目します。これは、実は日本人の持っているオリエンタリステイックな感覚です。
「オリエンタリズム」の本質は、実は作られた作品自体にあるのではありません。
重要なのは、こういったテーマ(今回ならば”芸者の生涯”)を「どう描いたか」という内容ではなく、「小説にしよう」「映画化しよう」「映画を見よう」「批判しよう」という時に潜む、それぞれのアクターの心性です。作られたものは、その結果でしかない。
アクター、つまり「作り手」であるロブ・マーシャル監督の中にも、原作を書いたアーサー・ゴールデンの中にも、「読んで」「観て」「批判する」アクター(我々観客&読者)の中に、すでに「オリエンタリズム」の心性があることを、忘れてはいけません。その上で作品を見ないと、映画としての評価はできないでしょう。
かく言う私も、もちろんそういう心性を持っています。こればかりはいかに排除しようとしてもできるものではありません。だから、「そんなややこしいものは観ない」と決めているのです。観てしまうと、このようにいろいろと考えてしまうから(笑)。
オリエンタリズムというのは、詳しくはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』を理解していただくとして、現代ではサイードが提示した以上に複雑な様相を呈しています。ですから、「映画の中の日本人」みたいなノリで、オリエンタリズムを理解しようとするのは、大間違いだと申しあげましょう(敢えてアクターという言葉を使って説明しました。文句のある人は関係ありそうな文献を読んた上で、論破しに来なさい:笑)。
西欧人も既にオリエンタリスティックな視点に既に無自覚ではなく、東洋の側もそうです。ですが、「オリエンタリズム・フリー」になることなど、所詮はできないことなのだということには、まだまだ無自覚なようです。いや、「自分はオリエンタリズム・フリーだ」という方がいらしたら、私はこう答えましょう。「それはあなたが”自分の妻(夫)の気持ちが分かる”というくらいの、あやふやなものでしかないのですよ」と。
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![]() | オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー) (1993/06) エドワード・W. サイード 商品詳細を見る |
サイードがこういう書物を書いたが為に「オリエンタリズム」が物分かりの良い知識人たちの間で一人歩きを始めている、というのはまったくもって逆説的で面白い事象です。
用語としての「オリエンタリズム」は、ドーキンスの「利己的遺伝子」と並んで、誤用の多い魅力的な言葉だと常々思っています。正しく使わないと、恥をかきますが。
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プロフィール
Author:わさきち
にゃんこの舟盛りの映画・アニメレビューを独立させてみました。ほぼ連動してますが、こちらのが若干マニアックでクドイ(苦笑)かも・・・。
ネタばれは書きません。
何事もポジティブにとらえたい性質なので、批評は前向きです。
貶すところしかないようは作品は取り上げません。
こんなスタンスです。
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